『ぼけますから、よろしくお願いします。』に出会ったのは緊急事態宣言が発令されて自宅に篭っていた時でした。

『ぼけますから、よろしくお願いします。』(http://www.bokemasu.com)は、娘である信友直子監督の視点から、認知症の患者を抱えた家族の内側を丹念に描いたドキュメンタリーです。

認知症や介護というテーマを身近に感じる機会は少なかったのですが、映画を見る内に追体験しているような気持ちになり、田舎の祖母の声が聞きたくて、すぐに電話をしました。
「ただいま」と帰れば「おかえり」と返ってくる。ものすごく当たり前で愛おしい時間。
そんな時間が認知症を機に変化します。けれど、認知症って不幸なのでしょうか。
病気や老いによって変わっていく大切な人に寂しさを感じながらも、愛しさが増す大好きな映画でした。

その後、新潮社から出版されている『ぼけますから、よろしくお願いします。』の本を読みました。映画では、監督でありご夫婦の一人娘である信友直子さんが自ら語るシーンはあまりないのですが、本の中では一つ一つのシーンでどう感じられていたのか、裏側が詳細に書かれています。

読後、映画を見返すとより感じるものがあって、何回も映画を見返しました。

それくらい私のバイブル的存在となった信友さんの作品ですが、なんと、信友さんがオンライン会議でベイカンシーを利用してくださることになり、インタビューのお時間まで頂戴することができました!

伺いたいことがたくさんあったのですが、その中でも今回は信友さんご自身の生き方や考え方についてお伺いしました。
私自身、将来の不安や過去の出来事に縛られて、生きづらさを感じた時、信友さんの映像や言葉にとても勇気づけられたので、特に同世代の20代の方が、この記事を通じて、自分を縛っていた「呪い」みたいなものが解けて、少しでも生きやすくなっていただけたら嬉しいです。

▼プロフィール

信友直子
1961年広島県呉市生まれ。1984年東京大学文学部卒業。 1986年から映像制作に携わり、フジテレビ「NONFIX」や「ザ・ノンフィクション」で数多くのドキュメンタリー番組を手掛ける。 「NONFIX 青山世多加」で放送文化基金賞奨励賞、「ザ・ノンフィクション おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記」でニューヨークフェスティバル銀賞・ギャラクシー賞奨励賞を受賞。 他に、北朝鮮拉致問題・ひきこもり・若年認知症・ネットカフェ難民などの社会的なテーマから、アキバ系や草食男子などの生態という現代社会の一面を切り取ってきた。「ぼけますから、よろしくお願いします。」が劇場公開映画初監督作品。

承認欲求が簡単に満たせる現代で、SNSとどう付き合うか

――まず、感受性を大切にするというご両親の教育方法が素晴らしいですよね。日本では「違い」を認めないというか、同調圧力を感じます。その中でも、自分自身がありのままでいられるためにできることは何でしょうか?

信友 私自身も同調圧力に負けてきたというか、どんどん同調圧力がひどくなってきていると思うんですよ。昔と比べるとネット社会になってから特にSNSとかでそれの圧力がすごくあると思います。例えば私は、20代からテレビを作る業界にいたけど、昔は気を使わなければならない人っていうのは、スポンサーとか決まっていたんですよ。視聴者も何かあれば電話で意見を言うような時代で。そういう時って、どこに気を使うかはっきりしていたから、そこさえクリアになればできたんだけど、今ってSNSで一人喋ったことがどんどんリツイートされていったりすると、どこに地雷が転がっているか分からないから、私だけじゃなくてテレビ業界全体がすごく気をつけて守りに入っている感じがしますね。すごく息苦しいです。

――SNSを通じて自殺に追い込まれてしまう人もいます。SNSとどう付き合って自分を守っていけば良いのでしょうか?

信友 私はいわゆるエゴサーチはしませんね。自分がどういう風に見られているかをそんなに気にしていないのかな。映画がどういう風に見られているのかっていうのでサーチすることはありますけど、自分の名前ですることはないかな。

――不快に感じる可能性のある情報とは距離を置くということですね。

信友 でも、別に興味がないからですよね。エゴサーチをして嫌なものが見つかったとしても、その人に反論したら反論したでまた炎上するだけだし、ほっといても自分のところにはそういう気持ちがのしかかってきちゃって自分が損するだけだから。

――エゴサーチをすると自分の良い評価も見られるので承認欲求を満たせますよね。承認されたいという気持ちが強くてエゴサーチした結果、悪口を見つけてしまうというのもあると思います。そもそも承認欲求が強くなってきているのでしょうか。

信友 というか簡単に欲求を満たせるようになったから、ハードルが下がったんだと思いますね。私も子供の頃、承認欲求がすごくある子で。今考えると10代の頃ってコンプレックスもあったんだけど、自信も変にあって。表現者になりたいとは思ってたんですよ、ずっと。そのころはまだパソコンとかないから、書くしかなかったのね。映像も自分で撮ることはできない時代だったから、ムービーのカメラなんて高くて買えないし、個人で持つ用のカメラなんてないし。だから写真と文章ですよね。手書きの文章を書くっていう形で。写真も今とは違って、フィルムだから現像するにもお金がかかるし、お金持ちの子の趣味だったんですよ。そうなるとやっぱり自分で鉛筆で文章書くしかないから、そういうので創作活動まがいのことはやっていたんです。だけど、それを書いたからといって発表するには、出版社で取り上げてもらうとか物凄くラッキーなことがないとそれはできなかったけど、今ってネットですぐ上がって­すぐ注目も集められるじゃないですか。その分、今の子たちは羨ましいなとは思うけど、簡単に承認欲求めいたものは満たされる分、リスクもすごくありますよね。

憧れ、コンプレックス、年齢を重ねるということ

――東京大学をご卒業されてキャリアとしてもすごくうまくいってらっしゃるイメージなので、コンプレックスをもたれていたというのは意外でした。

信友 広島県の呉っていう田舎から18歳で上京したら、みんな東京のキラキラした感じでやっぱり私、野暮ったいっていうかダサいなって思って。今となってはダサいのも私の一つの武器だって思うけど、その頃はすごく洗練されたかったんですよね。だからいろんな人に憧れたけど自分は絶対その人にはなれないっていうので。若い頃ほど外見的なことに目が行くじゃないですか。だから明らかにモテるクラスメイトがいると、すごく羨ましかったりとか、今考えたら馬鹿みたいなことだけどそれはすごくありました。

――女性として生まれて、若いことが評価されたり、若作りをしなきゃいけないとか、それがすごく嫌です。年齢を重ねる事について20代の頃に何か感じられていましたか?

信友 私は20代の頃に若さを武器にして何かをしたっていうタイプではないので、そんなに歳を取ることが怖くはなかったけど、どうですかね。なんかもう忘れちゃったな、20代の頃のこと。新卒で2年間くらいコピーライターをやって、その後24歳で映像業界に入ったんですけど、その時からこれを一生の仕事にしようと思っていて、キャリアを積むことや好きなものを取材していくことの方に気持ちが行ってたから「若くあること」に囚われていたっていうのはなかったかもしれないな。

――なるほど。私は信友さんの本や映画を通じて、年齢を重ねることがすごく豊かなことだって思えて、それだけで気持ちが楽になりました。

森永事件と記者との出会い、天職となったドキュメンタリー制作の原点

――もともとドキュメンタリー制作の仕事にご関心があったのですか?

信友 学生時代はドキュメンタリーを作る仕事をしようとは思っていませんでした。自己承認欲求がすごくあって何かの形で表現したいというドロドロしたものはあったけど、何をするかっていうのは決めていなくて。文章書くのが好きだったからコピーライターになったんですね。当時は大学4年の時が就活の時期だったんだけど、その時、男女雇用機会均等法の施行前だったんですよ。今まで男子と同じように教育を受けてきたのに、ここで差別を受けるのかってすごいびっくりしたんですね。本当は出版社に行きたかったけど全部男子のみの募集なんですよ。女子は受けさせてももらえないっていうのがあって。

――考えられないです……。

信友 そう、スタートラインにも立てないの。今だと考えられないですよね。それで、その頃ちょうどコピーライターっていうのが一過性のブームになったんですよ。そこで、コピーライターにさせてくれる会社っていうのを一生懸命探したら森永製菓がコピーライターを募集していたんです。それでたまたま入れたっていう感じなんですけど。

――大学ご卒業後は森永製菓でコピーライターとして働かれたのですね。

信友 その時にちょうどグリコ・森永事件に巻き込まれて本当に大変でした。コピーライターの養成講座に新卒から半年間通って10月からコピーライターデビューっていう前の月、9月に森永事件が起きて。グリコ犯が森永をターゲットに変えたんです。それで全てが変わりました。広告が打てなくなる、森永のお菓子が店頭に並ばなくなる、森永もしかしたら潰れるかもしれない。4年間親から学費や生活費を出してもらって、大学を卒業して、やりたかった仕事であるコピーライターになれて、母にもおめでとうって言われたのに、私はこれからどうなるんだろうってすごく凹んで……。

――それは相当落ち込みますよね。

信友 それで、年間トップワンの大事件だったからすごいマスコミが来たんですよね。その頃って今ほどメディアリテラシーって言われていない時期だから、外にいたらマスコミに狙われるんですよ。あの頃、なんとかして売り上げをあげないといけないから、工場から直送でお菓子を詰めて売っていたんです。「これなら毒も入ってないので大丈夫です」っていう意味で社員がワゴンセールみたいなのをいろんな街角でやっていました。それだと森永の社員って丸わかりじゃないですか。それで、マスコミが来てマイク向けられたりして。その頃22歳でマスコミはみんなおじさんで、カメラを持ってくるのが怖くて、事件で凹んでいるのにそっちでも傷ついていて、二度攻撃を受けるみたいな感じだったからマスコミが嫌いだったの。

その時に、たまたま朝日新聞の女性記者が被害者としてではなく一人の一女の子として話を聞いてくれて。それまでは被害者っぽいコメントをしないとなかなか帰してくれないおじさんたちに辟易していたんだけど、そのお姉さんは私を丸ごと受け止めてくれて「本当に大変よね」とか色々言ってくれて。「そうなんですよ。本当に親に申し訳なくて、親不孝だと思って……」とか言ってたら私、号泣したんですよ。初めて事件のことで人前で泣いたんですよね。それまで親にも心配かけたくないから強がってたし、同級生が心配してくれていても私だけ就職失敗したみたいな感じになっちゃうから弱音を吐けなくて、だから誰の前でも泣かなかったんだけど、人に話を聞いてもらって泣けたっていうのがすごくスッキリして救われた思いがして。それが多分、今の仕事の原点になっていると思いますね。なんか、そういう仕事を私もしたいと思ったんですよね。

「あなたのことを本当にわかりたい」という気持ちと、弱さを見せるということ

――記者の方にお話を聞いてもらったことが今のお仕事の原点になっているということですが、信友さんの作品では、登場人物全員が等身大の赤裸々な姿で語られている印象を受けました。取材されると緊張したり、自分を盛ってしまったりしがちだと思うのですが、ありのままを引き出すコツはありますか?

信友 あなたのことを本当にわかりたいという気持ちだと思います。相手の懐に飛び込むような感じで。本当に気持ちだと思いますね。でも、私も最初に人は選びますよね。やっぱりみんな承認欲求はあるから、私のことを知って欲しいって思っている人っていうのは私が話を聞くと、話したいから話してくれるし、そんなの良いですっていう人はいくら聞いてもダメだから。後やっぱりカッコいいとこ見せようとしている人は長年の勘でわかるんですよね。だから、それは許されないよっていうので。そこの奥がもっとあるでしょっていう風に突くと出てくる人もいるし、この人はいくら突いても本音を言わないだろうし、本音を自分でもわかっていないのかもしれないって思う人は初めから人選しない。

――取材対象だけでなく、映像の中では自分自身のありのままを映し出されていて、さらに本の中でもかなり赤裸々にご自身のことについてお話されていた点も印象的でした。私は弱さを人に見せたくないと思ってしまいます。どうしたらありのままの自分を見せられるのでしょうか?

信友 森永事件の時、女性記者に図らずも本音を言って泣けたことでスッキリしたっていうのがすごく良い体験になっているからだと思いますね。

――弱さを見せると自分が情けなくなるイメージがあったのですが、逆で、楽になるということですよね。

信友 楽になりましたね。その時は本当に追い詰められていたから。今みたいな状況で、この先どうなるか分からない、大企業に入ったけれど潰れるかもしれない、その頃女性はすぐに就職口があるような感じではなかったから、どうしたらいいんだろうとか、色々悩んでいたから。やっぱり自分だけで悩んでいるとぐるぐる巡ってマイナスモードになっちゃう。よく言うじゃないですか、人に相談した方が良いって。お姉さんに話したからと言って事件が解決したとか、周りの状況が変わったわけではないけど、話すことでなんかスッキリした。なので、私も仕事として話を聞いて、その人が楽になれば良いし、楽になったとしても心理カウンセラーじゃないからそれを職業的な秘密にはできなくて、みんなに言うのが仕事だから、それを二人で表に向けて発表しようねっていう共犯者になってくれる人とそういうことをやるっていうのが自分に向いているなって思ったんです。

母もそうだったんですけど、昔から信友にだけ話すけどねって相談されることが多くて、人が本音を話してくれるようなタイプ、いわゆる聞き上手っていうのかな。昔からそんな感じで、同級生の秘密を結構知っているんですよ。だけど私は誰にも言わないから。だからどうやって話を引き出せるんですかって言われると昔からそうだったから、こういう技術で話が引き出せるっていうことではないんだけど。でもやっぱり、私自身も好奇心があるし、自分の表現欲求とか承認欲求もあるから、秘密を聞けて尚且つその秘密を自分のフィルターを通して発表できるこの仕事っていうのはすごい向いていたんですよ。だから、それに一生懸命になっちゃって。当時付き合ってた人とかもいたけど、結局結婚するかしないかの時に仕事を続けるかどうかっていうので、続けたかったから別れたりとかして。仕事がっていうよりその行為が面白かったから続けただけで。他のことは二の次だったっていう。

でもそういう一生懸命になれるものに20代後半で見つかったっていうのは自分ではすごくラッキーなことだと思います。

偶然の積み重ねで見つけた一生懸命になれるもの

――「好きなことをする」これはお父様の強い方針でもありますよね。やりたいことや好きなことが分からないという人もいると思うのですが、やりたいことを見つけるためにはどうしたら良いのでしょうか?

信友 これは本当に出会いでしかないですもんね。今ドキュメンタリーの制作っていう仕事をしているけど、小さい頃にテレビのドキュメンタリー見ていたかっていうと全然そうじゃないから、だから別に興味があったわけではないんですよ。たまたま人との出会いでそうなっていったのね。転職した時も、女性記者との出会いはあったけど、だからってすぐ転職したわけではなくて。森永事件が1年で収束して、次の年からコピーライターをやるのと同時に、広告部だったからコマーシャルフィルムの撮影現場にも立ち会うようになったのね。立ち会うと、現場の方が全然面白そうだなって思って。でもクライアントって行くとただのお客様で、何も一緒にできないんだよね。すごいこっちに行きたいと思って、どうせなら向田邦子さんが好きだからドラマの制作会社にと思ってドラマに入ったの。その中でドキュメンタリーの企画募集が2、3年目にあって、たまたま企画だけ出したら通って。まだ26歳だったから、ドキュメンタリー部のプロデューサーとディレクターが作るから「たまに現場に遊びにおいで」みたいな感じだったんだけど、そのプロデューサーの具合が悪くなって入院したの。だから私が26歳にしてなぜかその番組のプロデューサーになって、訳も分からないままやったっていう、本当に偶然の積み重ね。その頃は、ドキュメンタリーやりたいとは思っていなかったからたまたま出した企画で、たまたまそれが通っただけで、でもやってみたらだんだん面白さにハマっていったっていうか。最初は人に話を聞くっていうことに重きを置いていなかったんだけど、聞いてるうちにもっと深いところまで行きたいってなって思って。この人との化学反応でいろんなものが出てってくるんだなって。私が行くのと他の人が行くのじゃやっぱり違うし、私が行くのでも今日行くのと明日行ったのとでは気分も違うから違うんだなとか、その日の化学反応なんだなって。いろんなことがわかるようになってきたから、だんだんはまって来たっていう感じ。

チャンスの神様には前髪しかない

――偶然を作るためにも机に向かって自己分析というよりも、足を運んだりした方が良いのでしょうか?

信友 足を運んだほうが絶対に良いですよ、面白いって思った時に。「チャンスの神様には前髪しかない」とか言うじゃん。後ろにはもうないから。だからチャンスだと思った時にはもう掴んでっていうのは絶対に大事だと思います。

――やってみて合わなかったら違うチャンスを掴めば良いですよね。

信友 そうそう。本当に出会いだと思いますよ。一人では絶対にできないから。特に若いうちは。誰と組むかとか、誰と出会って、どう言う風に引き揚げてもらうかっていうのはすごくあるから。

――それは直感というか、感覚的にこの人の元で勉強したいっていう感情で良いのでしょうか?

信友 そうね。後は、自分が何に興味があるかっていうので、興味があることを突き詰めていっていた時期もあったし。私より少し前の世代で70年安保っていうんだけど、学生運動があって、1968年〜1969年くらいに大学生が大暴れした時期があって。それを私テレビで見ていて、父がその頃から東大とか京大とかが好きで大学の話をしてたから、東大に行ったら放水されたり火炎瓶もったりしなきゃいけないんだって。こんなに大学生って大変なんだなって思っていたくらい。でも、あれは何だったんだろうっていうくらい自分が大学生になったらそんなのは1ミリも残っていなくて。あの人は今どうしてるんだろうみたいな、そういうことに興味があったから、そういう取材をしていた時期があったり。

――怖さはありませんでしたか?

信友 いや、怖かったから面白かったの。過激派と言われる人の本部にいって「爆弾どこにあるんですか?」って聞いたりとか。でもそういう意味では若い女だから得したのかも。同世代のおじさんとかがいったら喧嘩になっていたかもしれないけど、あの頃まだ20代だったから、お嬢ちゃん興味あんの?みたいに思われてそれは得だったかも。

――天職だったのですね。

信友 そうだと思う。すごく面白かったから寝食を忘れて1ヶ月家に帰らないとかザラだったから。

「もう一回同じ人生やりますか?」って言われたら同じことをやる

――ブラック企業だと今だったら言われますよね。

信友 そうそうそう。だから今の子たちはちょっとかわいそうなのは、寝食を忘れてでもやりたいって思っている子はいるかもしれないけど、働き方改革でやらせてもらえないんだよね。

――仕事をプライベートとの境がなくなるくらい楽しんでいらっしゃることは、本を読んでいてとても新鮮でした。

信友 それはでも古いかもしれないですよ。今は絶対、労働基準法的に受け入れられないことだから。だけど、確実に私はそれが楽しかった。例えば1日の8時間は仕事するんだったら絶対楽しいことしないと損じゃない?終わり時間を数えるような仕事だとつまんないじゃない。だからそういう意味で言えば私は何もかも忘れて夢中になって、仕事とも思わずにやれたっていうことは幸せだったと思う。乳がんになったし結婚もできなかったし、いろいろマイナスはあるけど、それを差し引いても、私「もう一回同じ人生やりますか?」って言われたら同じことをやると思うから。そういう出会いがもしあればね。

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偶然の積み重ねで天職と言い切れる今のお仕事に出会うことができたというお話を聞いて、偶然を作るためにとにかく足を運び、少しでも興味のあることに全力を注きたいと思いました。そして、自分の好きにがむしゃらになることで、人と比べたり、満たされたいと思ったり、そういう気持ちも薄れていくのだと感じました。私も「好き」に一生懸命に生きていきます!

「もう一度同じ人生を生きたい」と語っていた信友さんですが、乳がんやインドで大事故を経験されています。後編では、そういった出来事とどう向き合われたのか、そして、お母様の介護のことや亡くなられた後のこと、今後の目標などについてお伺いしていますので、ぜひご一読ください。

後編に続く

インタビュー・文責:大森愛美